Tuesday, March 22, 2011

AC 日本公共広告機構




やっと落ち着いて物事を始めることができました。

色々と心配してくださったみなさんありがとうございました。

3月11日(金)引っ越し業者が栃木県のアパートに見積もりに来ました。なぜか自転車の話やこういった世界の話で盛り上がり、友達価格までに下ろしていただき、とても喜びました。しかしその見積もりが終わった後の小一時間後、いきなり大きな地震がやってきました。最初はすぐやむだろうと思っていたのですが、それがあまりにも大きくなり、ついていた電気が全て消え、立つ事さえもできなくなり、すぐに彼女を机の下に隠れさせ、僕はじっと様子を伺っていました。正直震度5強〜6までの地震を体験したことがなかったので、とりあえず身の危険を感じる前に何かをしなきゃと言い聞かせつつ、約1〜2分?それよりかもっとかな?分からないけれど、ずっと壁が壊れないか、天井が落ちてこないか祈っていた事を覚えています。昔、横揺れは大丈夫だが、縦揺れは危険と教えてもらっていたので、縦揺れが来る前に外へ避難する準備をしました。外を出た時には縦揺れが始まり、周りの家の瓦が崩れ落ち、塀が一気に倒れ、あるお宅の窓ガラスが割れる音や、人の叫び声がなぜかこの世の終わりのような気がしてなりませんでした。しかし、一番助かったのはiPhoneでツイッターをやっていたのがきっかけで外で何が起きているかを知る事ができました。ただの地震ではなかったのです。どこが震源地か分からなかったので、どうすることもできずに外で待機していたのですが、津波警報が岩手、宮城、福島、茨城で出され、一瞬にしてその映像が出回り、昔見た自然災害の津波の映画を思い起こすほど血の気が引きました。アメリカ人の彼女は地震を体験したことが無かったので、終始震えていました。

それから一日中電気や水道、ガスが無いなかで、真っ暗な中で懐中電灯を使い、過ごしました。街が真っ暗で、ゾンビがでるんじゃねーかみたいな。なぜか自分の横にはいつも木刀があったのを思い出します。

10分毎に震度3以上の地震が来ており、彼女をどのようにして落ち着かせるという事のほうが重要に思えてきました。とても寒くて、真っ暗で、外国にて、とても不安だったでしょう。

うっすらと覚えているのは、とりあえず布団にくるまり暖かくして、いつ電気が戻るか分からないから、これからどのようにして過ごすかを考え、次の朝外で食料を少しでも買おうという事になりました。

しかしそれではもう遅く、スーパーは閉まっており、コンビニでは物がなく、一瞬絶望を味わいました。でもなんとかなるでしょ的な楽観主義な俺は、とりあえず家にあるもので、電気、ガスを使わないでできるものを食べようと果物を食べしのいでいた時、電気がもどったのです。ほっとしました。ガスも戻り、普段と変わらず冷蔵庫にあるものを料理できるようになりました。このとき初めて即席な食べ物の有り難さをしみじみ感じました。健康に気を使いすぎ、新鮮な野菜や肉を毎日料理していても、いざとなったら火を外で起こさない限り何もできないんだなと。。。

やっとのことで、外で何がおきているのかと(iPhoneの電源がなくなっていたので何も情報がなく。。。)テレビをつけたら、津波。津波。津波。流される家、流される人、流される車、火の海。。。地獄絵でした。震源地は栃木ではなく、少し離れた東北の太平洋側であった事を知り、一瞬ほっとしたと同時に、次々と色々な情報が飛び込み、震源地が色々なところに散らばっているのを知り、ほっとできない状態がまた続きました。東北との玄関であるここ大田原市ではどこで地震がおきても必ずくらっている状態だったので、ああだから10分ごとねって思ったと同時に、テレビに釘付けにならなければ、いつどうなるか分からないと思い、ずっと見ていました。

最悪にも100キロ離れた福島原発で放射能がもれたとの情報も入ってきており、彼女の友人たちは仕事をもほっぽり出し、アメリカへ帰国する人や、東京へ逃げる人、東南アジアへ逃げる人などが続出し、彼女の家族からはアメリカへ帰ってこいとの連絡。そしてしまいには、愛知県の俺の親から避難命令が。

情報を収集した中での行動を取ると言ったのですが、情報が多すぎて判断するのが本当に困難でした。地震がおきてから約一週間、目を見張り、震度3の地震がきても落ち着いて行動ができるようせまりくる何かに判断をしろと言われているようで、大変だったのですが、何もかも確実ではないとの事を肝に命じ、そして一番大切なのは彼女が一番安心できる事を率先してやろうという判断に至りました。正直、こんな時に避難をしても。。。って自分の頑固さや、サバイバル精神が許さなかったけれど、でも精神的に壊れてしまうのも危険だと思ったので、彼女の仕事場に2、3日間お休みを頂くと伝え、新幹線がようやく走り出したと同時に、愛知県へ避難しました。

何も被害の無い愛知県でも米がなかったり、トイレットペーパーがなかったりと変な現象があったようで、しかし外は平和で、地震の話など全くなく、せっせと働く人々、酒に酔っぱらう人々。これが普通だったのに、普通と見れないのが何か夢のような世界であって、しかも自分がなぜ愛知県にいるのかも分からなくなるくらい変な錯覚を感じました。

そして今、また那須地方の大田原市に戻ってきており、計画停電、ガソリンスタンドは閉まっており、スーパーも早く閉まり、町中で節電をしているのがとても通常になってきていると感じます。

アーティストとして、この一週間少しの間、できることをしました。後に形として出てくると思われるので、そのときに俺がどんな思いだったかを知ることができるかもしれません。そして本当にこれからの日本が昔から必要と言われているものが見えてくるのではないかという想いもこめて作らせていただきました。

まだ震災の爪痕は大きく、これからだとは思いますが、この震災にて学んだ事は、1つ。それは、1番大切なものは何かって事です。どれだけ多くの情報が飛び交っており、信じれるものがどれだか分からなくても、1番大切なものを守るためには、んなことはどうだっていいんです。自分のルールだってどうだっていいんです。それが安全であれば、ウソを信じてもいいんです。その大事なものが心配性すぎて、うざくなっても、この言葉さえあれば前にすすめます。『強きものは弱きものを助ける』この歳になってようやくこの意味が分かりました。

みなさんも、自分は我慢できる立場だからそのルールを他人に押し付けるなどという事をせぬよう。自分が強い人間であるのならば、その強い力と同じ力を他人に求めず、お裾分けする事が大事だということです。